14

           明治以降                     

 第一に忘れてはならないのは、
高島嘉右衛門(呑象)氏でしょう。
 
名前は有名ですが、知識零の方々が殆どでしょう。そこで概略。
  天保三年(1832)生ー大正三年(1914)没享年八十三
 

 材木商と普請業
を兼ねた家に生まれます。幼少より商いを見て育
ったので、実業に非凡の才を発揮します。只、材木などの建築資材
は、天候に支配され易く、或る時は巨万の富、或る時は破産。と、
れ動く半生
でした。
 
打ち続く天変地異のせいで氏は破産状態になりました。

 
時は幕末、横浜に外国人が多いのを知り情報収集すると、海外
小判一枚につき十二の銀の交換比率。国内では銀四で小判一枚
比率。理由は日本の
小判の金の含有量が三倍。鋳つぶして金だけ取
り出しても、
大儲け。

 幕府もこれに気づき禁令をだします。も禁令は知っていましたが、
背に腹は代えられず、ついつい
破ってしまう。やがて、追捕の知る処
となり
牢屋に入れられます。現在の外為法違反です。七年間。長いでし
ょう?

 牢中一日中やることありません。刑罰の勤めを除いては。
 そんな時一冊の
易経を偶然入手しました。誰かが置き忘れたものでし
ょう。元々、江戸期の中流以上の庶民は世界でも類が無い位、学習意欲
強く、識字率も高い。氏も幼少時より論語、孟子、易経と親しんで来たの
で、より深い目で
易学を、おさらい、磨きをかけました。

 周の文王も丁度七年罪なく、殷の王に警戒されただけで牢に入れられ、
その期間にコウ辞を考え、補足したと云われています。氏の外為法違反
とは大分違いますが、とにかくこれが、
後易聖と言われる契機になります。
 
 刑期を終え世に戻ると、わずか一年経ずして膨大な借金、債務の目安
をつけ、後プラスに転じます。信用、人脈、商いの才、運が味方したのでし
ょう。

 
 明治期にはいると、横浜で日本初の洋式ホテル、初の女学校初のガス
灯、
初の横浜、函館間の定期航路、初の鉄道馬車政府より横浜埋め立
て、区画整理、
の事業をまかされる。「高島町」、「嘉右衛門町」、など今で
も地名として残っています。

 私生活では時の内閣総理大臣伊藤博文の子息に、娘を嫁がせ時の最
高権力者の外戚となります。
 
つまり実業家なのです。只、新聞に日清、日露戦争、朝鮮事情など、
学の予知を掲載し全て其の通り
になるので、世間から称賛畏敬の念を
受けます。
 より具体的で、的中率は、抽象的なノストラダムスなど比較になり
ません。

 只、易の達人は高嶋呑象氏だけでなく、吉田少陰、佐久間象山、名の有る
武士、町人に至るまで当たり前に学習した時代でしたので、実はとんでもない
氏以上の達人がいたはずです。本来個々のものですので。知られているか、
い無いかの違いです。


 晩年高島易断と云う本を出版します。漢字、カタカナ文で非常に格調高い
内容です。
 その頃から
高島易の権威、名声に目をつけた詐欺もどきの輩が勝手に、
さも縁が有る様に高島を
名乗ります。ちなみに、は、協会や団体など造っ
ていません。
易断易団では無いので。高島の看板を看たら自称と思って下
さい。後継者も、確か甥が一人のみで、
直系の弟子など一人もいません。




       〇次のページへ    〇周易TOPへ